満月が出ているというのに、足下はひどく暗い。目の前の闇から、何者かが覗いているような気がして、その度に少女の足は止まりそうになる。
だめだ、走り続けないと。
息がうまくできない。あれから、どれくらい走ってきたのだろう。体は悲鳴をあげている。
こんなことなら、いくら締め切りが近いからといって、夜遅くまで学校に残るんじゃなかった。
少女は今更、己の選択を公開していた。
普段と同じ帰り道。そう、あの曲がり角を行くまではいつもと同じだった。
ふらふらと前を歩く人がいた。その人が急に生け垣に倒れ込んだのを見て、驚き近寄った。大丈夫ですか、と声をかけながら。
しかし、すぐに彼女の足は止まる。体はそのまま生け垣に突っ伏しながら、首だけが……そう、首だけ後ろに回して彼の視線が彼女を突き刺した。
生気を失った顔に、目だけが血走って。大きく開けた口に、異常に大きな犬歯が光る。
そして、確かに聞こえた。彼はこう言ったのだ。
血が欲しい、と。
(まさか、あれが噂の吸血鬼?)
少女は昼間にしていた級友達との話を思い出す。
昨日、変わった死体が見つかった。体は綺麗で、外傷と言えるのは首筋の傷跡だけ。それなのに、全身から一切の血液が失われていた、と。
そんなの吸血鬼じゃない、と高い声で彼女達は笑っていた。
見間違いならどれだけいいだろう。酸素の足りない脳が、それでも思い出すのを止めてくれない。
あの、身の毛もよだつ男の顔を。
「あっ」
夢中で走ってきたせいか。彼女は袋小路に迷い込んでしまう。目の前には壁だ。先には進めない。
戻らなければ、と考える頭に足音が響く。
(来た!?)
一際、鼓動が大きくなった。どうしよう、と悩んでいる間に足音は近づいてくる。もう逃げられない。
「そうだ」
少女はロザリオを取り出す。祖母から譲り受けた由緒正しきもの。きっと、この窮地から救ってくれる。
まさに、天に祈る気持ちで十字架を握りしめると、彼女は近づいてきた者に向けて突き出した。
怖れで、ぎゅっと目をつむっている。そんな彼女の耳に小さく嘆息の音が聞こえてきた。
あれ、と思うのも束の間。
命綱のように握りしめた大きめの十字架を、目の前の彼はひょいっとつまみ上げたのだ。
「あっ」
そこで初めて前を向いた。
「お嬢さん、覚えておくといいぜ」
そこにあったのは、あの恐ろしい形相ではない。
「こういうのを嫌がるのは、それこそお嬢さんみたいな信心深い者の成れの果てさ」
いつのまにか、満月が満月らしく夜を明るく照らしていた。その月の光が、彼の金色の髪を闇の中で輝かせていた。
年は少女よりも少し年上に見えた。その白い肌は海外の人のようでいて、日本人の血も感じさせる顔立ちをしている。
「ほれ」
彼はロザリオを雑に放り投げる。少女の固まった体はようやく動き出す。慌てて、それを地面に落ちぬように受け止めた。
「吸血鬼じゃ、ないの?」
動揺が続く彼女は、自分でも意味の分からないことを口走る。何を言い出すんだろうか、少女は自分で自分を叱りつけたい気分になる。
気を悪くしただろうか、そんな思いで上目をつかう彼女の眼前で、彼は予想外の反応をする。
「ん~にゃ」
悪戯な笑みを浮かべ、首を横に振ったのだ。
「はっ?」
彼の返事に、脳の処理が追いついていない彼女は見事にフリーズした。そんな彼女を見て、彼はケラケラと大きな声で笑っている。
「ま、吸血鬼にも色んなやつがいるってことだ。覚えとけ」
そのまま立ち去ろうとする彼を、硬直したまま見送っている少女。
このままでいいのだろうか、とふと思った。関わらない方がいいと思う冷静な自分と、この出会いにわくわくしている不謹慎な自分が彼女の中にいた。
「えっと、あなたは何なの?」
それで絞り出したのは、やっぱり意味の分からない問いだった。彼女はもう、いっぱいいっぱいなのだ。
そんな彼女を見て、驚く彼は目を丸くしてた。しかし、すぐに柔和な笑みを見せると、こう言った。
「俺は陽を往く者。吸血鬼を屠る、吸血鬼さ。今宵は何とか助けに入れたが、今度はそうはいかないぞ。夜道には気をつけて」
今度こそ闇に消えていく彼の背中を、見えなくなるまでずっと見送った。
また会えるだろうか。
少女はそんな思いで、目を輝かせていた。
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