【小説】私の方が似合うでしょ?【短編】

 

あらすじ

 彼女は異様に空いた電車の中で疲れと嫌な思い出に苛まれていた。車両の隙間から無数の目が現れ、黒い影が彼女に近づいてきた。彼女は恐怖に震え叫び声を上げる。その話は実は友人たちの合宿での怖い話だったが、実際に黒い影が現れ、最後に語り手は扉をしっかり閉めるよう警告する。

 ガタン、ゴトン。


 心地よい電車の揺れ、そして体の疲れが彼女を夢の世界へ誘おうとする。


 普段なら使うことのない時間帯に乗った車両は、異様なほどに空いていた。

 いつもなら座ることができないほどに座席が埋まっているというのに、今は彼女と壮年の男性の姿しか見えない。


「本当、疲れた」


 彼女は小さく、自分にしか聞こえない程度の声で呟いた。


 近頃、嫌なことばかり続いている。

 仕事のミスを責められ、その補填ほてんの為に走り回った。確かに自分がしでかしたことが原因だが、誰も助けてくれなかったことに腹がたった。


 実は同僚から嫌われている、という事実を彼女だけが知らない。彼女は華やかで、常に人に囲まれていた。だから、彼女自身は自分のことを人気者だと錯覚している。

 事実、初対面の人間は彼女に好感を抱く。しかし、付き合いが長くなった者は徐々に分かってくるのだ。


 ナチュラルに、そう、本当に自然に。彼女は自分を中心に世界が回っていると思っている。


 それに耐えられなくなって、同棲していた彼氏が逃げ出したのがつい先週のことである。結婚まで考えていた相手だから、さすがに彼女も傷ついたようだ。


「本当、最悪」


 傷ついたのは、心と言っても、主に自尊心のほうであるが。


『最近、置き引きの被害が報告されています。貴重品は肌身離さず……』


「泥棒の対処くらい、自分達で何とかしなさいよ」


 注意喚起のアナウンスにも毒を吐く。泥棒、という言葉が突如、彼女の記憶を奥底から引っ張り出した。


 あれはまだ彼女が幼かった頃。

 隣の席に座っていた子の髪飾りが気になった彼女は、何の躊躇ちゅうちょもせずにそれを奪って自分の髪につけた。

 当然、持ち主は抗議したが彼女は自身の取り巻きに悪びれずに言った。


 ほら、私のほうが似合うでしょ、と。


 まだ仲間はずれにされることが死に等しい苦痛を感じる年代の頃。彼女に迎合する空気に逆らえず、皆が頷いた。

 それぐらいいいじゃないの、と仲の良い人間にすら言われた持ち主は怒りを飲み込んで呟いた。


 ただの泥棒のくせに、と。


 自分に対する悪態だけは、彼女はよく覚えている。周りの称賛が心地よくて、当時は気にもしなかったが今更思い出してしまった。


「何が泥棒よ。似合ってもないくせに。私がつけた方が綺麗なんだから、仕方ないじゃない」


 思わず大きくなった声を抑えようと口元に手を置く。ただ一人の同乗者は、こっくりこっくりと寝息をたてている。

 良かった、と胸を撫で下ろそうとした彼女の目がある一点に留まった。


(ちょっと開いてる)


 車両を繋ぐドアが、少し開いていた。それだけならよくあることだ。

 彼女に興味を抱かせたのは、その奥のこと。


(なんで、何も見えないんだろう)


 窓の方は奥の車両まで見ることができる。向こうの車両も人は少なく、閑散としていることがわかる程度に。

 それなのに、その隙間は真っ暗で。こうして、気になってじっと見つめているというのに何も見えやしないのだ。


 だから、見えるものが現れた時。彼女はそれをはっきりと視認してしまった。


(なに、あれ)


 暗闇にあったもの。

 それは目だ。それも一つや二つではない。無数の目が、びっしりと縦に積み重なっている。

 彼女の背に、ゾワゾワッと悪寒が走った。


 夢でも見ているのか。

 そう思った彼女だったが、異質なそれはさらにこちらの世界に侵食してくる。


 どう考えたって、人間だったら狭すぎて通れない。その隙間を、その黒いやつはにゅるりと通り過ぎていく。

 すぐに、こちらの車両にそれは入り込んだ。


(あれはやばい)


 彼女も直感で感じ取った。逃げたいのに、気づけば体を動かすことができない。

 それは電車の天井につくかという高さから、こちらを見下ろしている。


 見下ろしている、というのは彼女の感覚だ。先程まで気持ち悪いほど密集していた目はなくなり、真っ黒な影がそこに立っているだけなのだから。


 それ・・はまず近くの男性に近寄った。しばらく、彼を見つめている様子だったが、すぐにこちらに向けて歩き出す。


 ぺたり、ぺたり。


 のっそり、のっそり。


 彼女はその様子を震えながら見つめている。

 目を背けることはできない。閉じることすらできない。


 金縛りというものは、ほとんどがなっている人の夢だと聞いたことがある。彼女の、夢だとしたら早く覚めてほしいと一心に祈った。


 しかし、その祈りは届くことはなく。


 それ・・はついに、彼女の目の前までやってくる。


 眼前が影で覆い尽くされる。まるで、こちらを覗き込んでいるかのように上半分が折れて彼女に近寄ってきた。

 先程の男性にしていたかのように、じっと見つめている黒い影。


『それ、似合ってないね。私の方が似合うでしょ?』


 口もないのに、影は話し出す。かつての、彼女と似たような声で。


『だから、私にそれ、ちょーだい』


 彼女の顔すれすれまで近寄ってきた影が真っ直ぐに横に裂け、そこには血のように真っ赤な舌が――


「ぎゃああああああっ!!」


 浩平の語りは、準一の叫びによって中断された。

「なんだよ、そんなに怖い話か」

 準一は俯いて震えている。彼のそんな態度を見たことがない浩平は、自分の話がそうさせたという思いから少し心地よい感覚を覚えていた。


「で、それ、どうなったの?」

 横で聞いていた蒼汰そうたが前のめりになって、浩平にオチを聞いてくる。

「職員が放心して動けなくなっていた彼女を見つけました。彼女の髪は真っ白で、肌はまるで老婆のよう。そう、隙間から現れたそれは彼女の心に似合っていない若さと美しさを奪っていたのです」

「……ふーん、ま、よくある話だな」


 そんな風に二人が話している間も、準一は小さくうずくまっている。合宿の夜は退屈だから何か話をしろと言ったのは準一のくせに、と浩平は思う。

 そんなに怖い話が苦手なら、ジャンルを指定すれば良かったのだ。


 しかし、あまりにも怖がり過ぎである。

「大丈夫か、準一」

 浩平が声をかけるも、彼は動かない。下を向いたまま、浩平を指差す。


「ん?」

 いや、これは後ろを差しているのかと浩平は振り返った。


 その途端に、浩平の瞳孔が大きく開く。


 しっかり閉めなかったのは誰だろうか、部屋の扉が少し空いていた。消灯時間は過ぎているから廊下は真っ暗である。


 それなのに。

 浩平の目には、こちらを見つめている黒い影がはっきりと映っていたのだった。


 さて、このお話はこれでおしまい。

 最後にみんなに言いたいことがある。


 いいかい、覚えておいて。扉はしっかり閉めないといけないよ。


 その隙間から誰が覗いているか分からないんだから。それ・・は、こちらに来たくて来たくて仕方がない。


 ずっと、向こうでチャンスを待ち構えているんだよ。


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